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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第3節 狐と鶴 [15]




 振り仰ぐ美鶴に肩を竦める。
「疲れたでしょ? 送ってく。明日も学校なんでしょ?」
「あ、はい」
 そうだ、とりあえず帰らないと。
 携帯を見ると、午前四時過ぎ。ここがどこだかわからないが、大して睡眠時間は取れそうにない。
 でも、安心したから寝れるかも。
 立ち上がり、ユンミの後ろにトボトボと続きながら、ようやく少しだけ安堵を感じた。
「霞流さんが死ななくて、よかったです」
 振り返ってそう告げる時には、少しだけ笑う余裕も出来ていた。
「殺したくなければ、頭突きはやめろ。そもそも、頭に怪我をしている相手に何をする?」
 額に手を当てて嫌味を吐く霞流の言葉に、美鶴は頭をさげるだけだった。
 こうして美鶴はユンミの車で家路についた。もうお酒は抜けてると思うんだけど、と軽い口調でハンドルを握る横で、取締りにひっかかりませんようにと祈る事しか美鶴にはできない。
 車中、ユンミの鼻歌が漂う中で、恐る恐る聞いてみた。
「あの、あのお店での私の代金って、いくらくらいになるんでしょうか?」
 その言葉にユンミは鼻歌を止め、一瞬思案するように上目遣いになってから、美鶴へチラリと視線を送った。
「まぁ、お祝い金って事で」
「は?」
「慎ちゃんの第一トラップを突破したお祝い金にしておくわ。私持ちって事にしてあげる」
「は、はぁ」
「それにしても、あそこで頭突きとは恐れ入るわぁ」
 盛大な笑い声。
「あそこでキスしたりする子は今までにもいたけど、頭突きってのはねぇ」
「小さい頃から石頭って言われてたんです。頭ぶつけても痛がるのは相手ばっかりで。でも、やっぱりよくないですよね」
 品も無いし女の子らしくもないし。
 でも、なんとか霞流さんの気を逸らして携帯を取り返さないとって、そればっかり考えてた。
 キスだなんて、そんな事思いつきもしなかったよ。
 か、霞流さんと、キス。

「俺もそれなりに自信はあるんだ。三人のウチで誰のが一番美味いか、教えてくれよ」

 そういえば私、霞流さんに後ろから抱き締められたりしたんだった。
 途端、全身を包み込むような感触が蘇る。

「意外に綺麗な肌だな。井芹が褒めたのもわかる」

 ボッと、燃え上がるような音が聞こえたのは幻聴かもしれない。だが美鶴はもうひたすらに頭がクラクラする。
 うひゃぁぁ 思い返すとすごい。すごい事をされてしまったっ!
 顔が熱くて熱くて、パタパタと仰ぎたいのをなんとか我慢する。
 で、でも、あれもこれも、結局は全部ウソで演技だったんだよね。
 ウソで、演技。
 頬が紅潮するのを俯いて隠しながら、美鶴は唇を尖らせる。
 こういう悪戯(いたずら)、他の人にもやってたんだ。それで、人によっては霞流さんにキスする人もいたんだ。
 胸が苦しい。
 やっぱり私って、まだまだお子様なのかな。
「何落ち込んでんの?」
「別に落ち込んでなんかいませんよ。ただ、頭突きはさすがにマズかったかもと」
「そう? そんな事ないと思うけど」
 パチンとウィンクをするユンミに、美鶴は複雑な気持ちで首を傾げる。
「でも霞流さん、呆れてましたよね。絶対に嫌われた」
「そんな事ないって。だいたい、俺の満足するような行動だって言ったの、慎ちゃん本人じゃない」
「それはそうですけど」
「だったら、それを信じときなさい。何より、第一トラップは突破したんだからさ」
 トラップねぇ。
 ため息をつきながら窓の外を見る。だが真っ暗で、何も見えない。代わりに見えるのは、ガラスに映る自分の顔。
 変な顔。霞流さん、こんな私を見て、何が愉しかったんだろう? こんなふうに人をからかって、慌てふためく人をみて愉しむだなんて、ちょっと悪趣味。信じられない。

「こんな風に人を見下して楽しむような、拒絶して孤立して満足するような君が本当の君だなんて、僕は信じない。絶対に信じない……」

 瑠駆真も、やっぱりこんな気持ちだったんだろうか? 四月に私と向かい合った時、聡も、やっぱりこんな気持ちだったんだろうか?
 窓に映るのは冴えない自分。惨めにからかわれた、どうしようもない自分。
 赤信号で止まった。ユンミが煙草を取り出す。火を付けながら少しだけ窓を下ろした。冷気が入り込む。寒さに身を縮める。
 少し離れたところで、酔っ払いがふらついている。こんな寒さであんな薄着じゃ死んじゃうよ。
 パシッと鋭い音がした。危なっかしい足元で、氷が割れた。
 ユンミが呆れたような視線を投げ、煙を吐き出す。
「お金も私が持つワケだし、ここは喜んどけばいいのよ」
 やっぱり、自分で払うとなるとそれなりの金額になるんだろうか?
 車がゆっくりと動き出す。また一つ、薄氷が割れる。暗闇に浮かぶ、虚ろな瞳。惨めな自分。
 このガラスも、割ってしまいたい。

「ウーロン茶三杯に千円札を出しておつりが来るとは思っていないだろうね」

 やっぱり一万円札くらいは必要なのだろうか? ってか、第一トラップって、何? こんな事がこれからも起きるというワケ?
 ゾッとしながら、そこでふと首を捻る。
 あれ? どうして霞流さん、私がウーロン茶を三杯飲んだってコト、知ってるんだろう?
 不思議がる美鶴の横顔に、ユンミが小さく口元で笑った。
「鶴の反撃も、そのうちかな?」







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